東日本大地震から8年

今日で東日本大震災から丸8年が経ちました。
当時11歳で小学5年生だった私は19歳になりました。

しかし、今でも当時の記憶を鮮明に覚えています。

当時私は小学校の会議室で課外活動の事後学習を行っていました。

ロッカーの上に置かれていたパイプ椅子数脚が叩きつけられるようにして床に落ちてきて、危うく怪我をするところでした。

私が住んでいた神奈川県では震度5弱が観測され、私の人生であの地震が一番大きなものでした。

慌てふためき、これからどうなってしまうんだという恐怖におののきながら、停電の中寒い夜を家族で過ごしました。

翌日、テレビをつけると、各被災地の被災状況がわかりました。

津波が町を飲み込む映像も目にしました。

津波により多くの方々が命を奪われ、家族を失い、家を失い、自分のふるさとを失うなどして、被災していることを知り、戦慄しました。

亡くなられた方の中には私と同じ世代の小学生もいることも知りました。

私は生まれも育ちも神奈川県相模原市で、11歳の当時も地元の小学校に通っていました。

それまで私は両親が私を産んだ地域にある小学校に入学し、成長してきました。それがたまたま神奈川県相模原市でした。

たまたま神奈川県に生まれた私は生き延びることができたけれど、たまたま宮城県に生まれた子は亡くなったり、家族を失ったり、将来ふるさととなる生まれ育った町が無情に破壊されるなどして被災していることを考えたとき、私は強い憤りを覚えました。

生き延びることのできた私と、被災した子どもは生まれ育った地域以外、何も変わらない子どもだと考えたからです。

生まれ育った地域に関しては私も含め、基本的に親に依存しているため、小学生の子どもたちに地域の選択権はほとんどないと言えます。

そうしてたまたま宮城県にいた同世代の子どもたちが被災していることの理不尽さ、また、当時11歳の私は周りから「子どもだから」と一蹴され、被災地は助けを求めている状況なのに何もすることができない自分の無力さと歯痒さを嘆きました。

翌年の2012年には母が小学校の保護者対象のプログラムを通じて南三陸町へ赴き、私に南三陸町の被災状況を教えてくれました。

それから私は子ども扱いされない年齢・立場になったら必ず南三陸町の復興支援に携わると心に誓いました。

そして私は大学生になり、社会的に「子ども」という指示のされ方はされなくなりました。

ご縁があり、入学した明治大学に南三陸町で復興支援の活動をするボランティアサークルがあったため、私は所属し、1年間活動して参りました。

私たちの活動が復興の一助となれているかどうかは可視化できるものではないため、正直わからないというのが本音ではありますが、私たちがやれることを全力で取り組んでいきます。


何年、何十年経っても、風化させてはならないことだと思います。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。

きずなInternational 1年 桑田貴大

きずなInternational

明治大学公認ボランティアサークル

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